2012年10月06日

雷電為右エ門キラー・花頂山五郎吉(市野上浅右エ門)

江戸の本場所で10敗しかしていない雷電為右エ門が唯一2敗したのが花頂山五郎吉でした。
雷電との対戦成績は花頂山の2勝3敗1預、享和2(1802)年2月に大関となりましたが、その場所を全休、同年8月に病気で現役死しており、劇的な土俵人生だったといえます。

▼履歴
花頂山は寛政2(1790)年11月に温海嶽の名で初土俵を踏みます。

常山を名乗っていた幕下時代の寛政5(1793)年3月8日目に幕内の雷電と対戦して勝利、これだけでは単なる番狂わせで終わりますが、花頂山を名乗っていた4年後の寛政9(1797)年3月7日目に幕内で再び雷電を下しています。

雷電は、寛政3(1791)年6月から寛政12(1800)年10月の間に花頂山の2敗を挟んで19連勝、43連勝、44連勝をしており、この間に雷電は花頂山にしか敗れていないことになります。
花頂山は唯一雷電に2勝した「雷電キラー」といってよい足跡を大相撲の歴史に残したことになります。

優勝相当2回、前述したように、享和2(1802)年2月に大関となり、市野上に改名しますが、その場所を全休、そのまま本場所に上がることなく、同年8月に病気により現役死しています。
その土俵人生はまさに劇的でした。

もし花頂山が現役死していなければ、雷電と花頂山の対戦は、雷電と柏戸宗五郎の対戦と並ぶもしくはそれ以上の黄金カードとなった可能性もあったと思います。
雷電との対戦成績は花頂山の2勝3敗1預でした。

花頂山の錦絵を見るとアンコ型の体格で、愛嬌のある温厚そうな表情をしており、実際に温厚な性格だったといわれます。

(この記事は、サイト「メインウェーブ」の「花頂山五郎吉(市野上浅右エ門)」をそのまま転載したものです)

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雷電為右エ門のライバル・柏戸宗五郎

柏戸宗五郎は、雷電為右エ門と同時代の大関で、その対戦は当時の黄金カードでした。
柏戸自身も強豪で、雷電の同時代でなければ横綱の可能性もありました。

▼履歴
柏戸は、天明6(1786)年11月に瀧ノ音の名で初土俵を踏みました。

寛政6(1794)年11月場所中に師匠の名である柏戸を継ぎ、寛政7(1795)年11月に入幕しました。

文化元(1804)年10月5日目に小結で雷電に勝ちました。
雷電が本場所で三役に敗れたのは、柏戸だけです。

合計12回の対戦成績は柏戸の1勝5敗1分2預3無勝負で、当時の黄金カードとして人気を博し、何を質に入れても見物に行くとまでいわれたそうです。

優勝相当は雷電不在で柏戸の新入幕であった寛政7(1795)年11月の1回のみですが、優勝同点相当が6回あり、そのうち3回が雷電の優勝相当の際の優勝同点相当でした。
雷電と違う時代であれば横綱の可能性もあった強豪です。

雷電のライバルといってもいいでしょう。

雷電の現役最後の相手も柏戸で雷電の成績で2回しかない引き分けを記録しています。
 
寛永10(1798)年3月場所中に2年前に亡くなった師匠の伊勢ノ海の名を継ぎますが、先代(柏戸の師匠の師匠)未亡人から物言いがつき、訴訟にまで発展し、同年10月には柏戸に戻しています。
後に調停が実り、伊勢ノ海襲名が認められ、引退後に伊勢ノ海の名を継ぎました。
 
(この記事は、サイト「メインウェーブ」の「柏戸宗五郎」をそのまま転載したものです)

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2012年10月05日

傍若無人な強豪大関・大達羽左エ門

大達羽左エ門は自ら2度の部屋移籍をした型破りな明治の強豪大関です。
全盛期には「虎(獅子との説も)を張り倒してみたい」といったといわれています。

▼履歴
明治6(1873)年に朝日嶽のいる立田川部屋に入門し、同年12月に初土俵を踏みます。
しかし、素行が悪く部屋を脱走し、新潟県を放浪し、造り酒屋で奉公をしながら土地相撲で活躍しているところを相撲会所を脱退した高砂改正組の高砂に巡業の際にスカウトされます。
しかし時同じくして巡業に来ていた朝日嶽に部屋を脱走した上に会所を脱退した高砂に入門したことを叱られ、侘びとして髷を切り、さらには丸坊主にして廃業かと思いきや高砂の元に戻ったといわれます。

明治11(1878)年6月に高砂は会所と和解し、大達も明治12(1879)年1月に東京相撲に復帰します。
明治15(1882)年6月新入幕、明治17(1884)年3月の天覧相撲では、明治天皇のリクエストで横綱の梅ヶ谷藤太郎(初代)との取り組みが行われました。
この対戦は、水入りになる30分以上の大相撲の末、引き分けとなります。
明治天皇もこの熱戦に大喜びだったと伝わります。

同年5月には35連勝の梅ヶ谷を下し、優勝相当(8勝1分1休)の成績を挙げ、大関の楯山の引退もあり、新小結から大関へ昇進と思われましたが、5勝の関脇・西ノ海が大関で大達は三役格の張出に据え置かれました。
この処遇を不満とした大達は師匠の高砂と口論となり、高砂を殴りつけてしまいます。
怒った高砂は日本刀を持って大達を追いかけ、大達は伊勢ノ海に身を寄せ、高砂から破門にされます。
大達はその後正式に伊勢ノ海に移籍し、1度ならず2度も自ら部屋移籍をしてしまいます。

この大胆さは土俵上でも変わらず、中腰で相手の顔の前に拳を突き出す「よいしょ仕切り」、相手の首根っこを掴んで後ろへ捻り倒す「徳利投げ」を得意としました。
「徳利投げ」は力量差がないと決まらない技であり、大達の恐るべき強さを感じます。
筋肉質の体格でひいきに二の腕を噛ませたことがありますが、巌のようでまったく歯が立たなかったといわれます。
さすがは全盛期に「虎(獅子との説も)を張り倒してみたい」と豪語しただけのことがあり、傍若無人とも思える型破りの振る舞いもこの「強さ」ゆえ許された面もあるのかもしれません。

明治19(1886)年1月に新大関、横綱目前とされながら、病気で体調を崩し、休場が続いたことにより平幕に陥落、以後は三役に戻ることなく、明治28(1895)年6月に引退しています。


年寄としては、面倒見の良さはあったものの、不器用な性格で誤解されやすかったようです。

(この記事は、サイト「メインウェーブ」の「大達羽左エ門」をそのまま転載しました)

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雷電の名を継いだ力士・雷電震右エ門(阿武松和助)

雷電震右エ門は、史上最強力士といわれた雷電為右エ門引退後に唯一「雷電」の名を継ぎました。
そして病気になり力が衰退する前はその名を継ぐにふさわしい強豪ぶりを示しました。
大関を陥落すると阿武松和助に改名します。
雷電震右エ門以後、「雷電」の名を継ぐ者は無く、いわゆる「止め名」となっています。

▼履歴
文久2(1862)年頃に阿武松の門に入ったといわれます。

元治元(1864)年4月に槇割の名で初土俵、順調に出世をし、入幕前にすでに姫路藩の抱えとなりました。
その間に里神楽、北ノ浦、兜山と改名しています。

明治3年(1870)年4月に新入幕、明治4(1871)年11月5日目から明治9(1876)年1月2日目まで43連勝をします。
この間に明治5(1872)年4月から3場所連続優勝相当、1場所(4勝6休)置いてまた優勝相当の成績を挙げています。
連勝中の明治6(1873)年4月に兜山和助から雷電震右エ門に改名、雷電を名乗る際には形式的に雷電為右エ門ゆかりの松江藩に伺いを立てたといわれます。

明治10(1877)年1月には大関となりますが、大関となってからは病気に苦しみます。
大関となった翌場所の同年10月から3場所連続全休、休場中の明治10(1877)年12月に大関を陥落すると雷電震右エ門から阿武松和助に改名します。

明治12(1879)年1月に復帰するものの、全盛期の勢いはなく、明治13(1880)年1月に優勝相当(6勝2敗1分1休)の成績を挙げた以外は目立った成績は無く明治14(1881)年5月の全休を最後に引退しています。

現役中に「年寄無用」を唱えたため、相撲会所と折り合いが悪く、阿武松の名で年寄を許されず、芝田山と改めました。


上手を取られると脆かったともいわれますが、肩幅が広く、筋骨隆々の怪力で組んでよし離れてよしでした。
品行方正で「飲む、打つ、買う」を一切やらず相撲一筋でしたが、あまりに強すぎ、色黒で、容姿も美貌を謳われた朝日嶽、綾瀬川に劣り、人気は今ひとつだったようです。

明治の強豪・梅ヶ谷藤太郎(初代)も当初は雷電に分が悪く、史上3位の58連勝も雷電に敗れた翌場所の明治9(1876)年4月からスタートしています。
梅ヶ谷の上昇と雷電の病気による下降が交錯しており、病気がなければ梅ヶ谷に対抗していた可能性もあり、大横綱となっていたかもしれません。

(この記事は、サイト「メインウェーブ」の「雷電震右エ門(阿武松和助)」をそのまま転載したものです)

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