2012年10月07日

谷風梶之助のライバル・小野川喜三郎

小野川喜三郎は、5代横綱ですが、谷風梶之助とともに実質上最初の横綱とされています。

▼履歴

小野川は、大坂相撲を経て、江戸でデビューします。

小野川が一躍脚光を浴びたのは、幕下(現在の十両)時代の天明2(1782)年3月7日目に、後にライバルとなる幕内の谷風梶之助の連勝を63で止めた一番です。

寛政元(1789)年11月に、谷風とともに横綱免許を受け、谷風、後進の雷電為右エ門ともに最初の相撲黄金期の一翼を担いました。
体格、地力で上回る谷風に対し、駆け引きと技術で対抗したといわれます。

前に谷風、後に雷電という古今の超強豪に挟撃されながら、自身も古今の強豪にふさわしい成績を残しました。
駆け引きを用いる慎重な相撲は、さっぱりとした気が短い江戸っ子には評判が悪かったといわれますが、谷風は「丁寧な相撲」と感心していたといわれ、地元ともいえる大坂では、谷風以上に人気があったそうです。


▼成績

幕内通算成績 144勝13敗4分10預3無勝負40休、勝率9割1分7厘、23場所で優勝相当7回

古今の強豪にふさわしい成績ですが、谷風、雷電と同時代であったことを考えると、その価値はさらに上がると思います。
谷風との対戦でも3勝(6敗2分2預3無勝負)しています。

(この記事は、サイト「メインウェーブ」の「小野川喜三郎」をそのまま転載したものです)



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2012年10月04日

明治の大横綱・梅ヶ谷藤太郎(初代)

梅ヶ谷藤太郎(初代)は、明治期の大横綱で、引退後も国技館建設に尽力しました。
史上2位の幕内勝率9割5分1厘、史上3位の58連勝を記録しています。

▼履歴
梅ヶ谷には、赤ん坊の頃から石臼を引き摺り、乳や菓子よりも酒を欲しがり酒で育てられたというにわかには信じ難い伝説が伝わります。

7歳の時に大坂相撲の不取川清助に引き取られ、梅ヶ枝を名乗り相撲を取り、16歳の頃には「筑前無敵」といわれます。

文久2(1862)年、17歳の頃に不取川を通じて大坂相撲の湊部屋に入門し、梅ヶ谷を名乗ります。

大坂大関となった後、明治3(1870)年暮れに東京相撲に加入、玉垣部屋に所属します。
明治4(1871)年5月に東京デビュー、しかし大坂大関だったにもかかわらず、番付は本中(序の口より下、現在では前相撲に当たる)に据えられてしまいます。
さすがにこの地位では敵は無く、順調に出世します。

明治7(1874)年12月に新入幕でいきなり8勝1分1休で優勝相当の成績を挙げます。
明治9(1876)年4月初日から明治14(1881)年1月8日目まで史上3位となる58連勝を記録、1敗を挟んで、翌場所の同年5月初日から明治17(1884)年5月6日目まで35連勝を記録しています。

明治17(1884)年2月に横綱免許を授与されています。

明治17(1884)年3月の天覧相撲では、明治天皇のリクエストで平幕の大達羽左エ門との対戦が組まれ、水入りの大相撲の末に引き分け、明治天皇も大喜びであったと伝わります。

引退後に雷を名乗り、明治37(1904)年の国技館(当時の呼称は大相撲常設館)建設に際し、安田銀行本所支店長の飯島保篤から信用だけで40万円(現在なら100億円相当)を無担保で借りることに成功しています。
協会はお礼として毎場所初日に飯島家に赤飯を届けたそうです。
協会の最高職・取締を長く務め、大正4(1915)年6月に弟子の梅ヶ谷藤太郎(2代)が引退すると雷部屋と年寄名跡を譲り、廃業します。
しかしその後も相談役待遇として協会に影響力を残し、「大雷」と尊称されました。

昭和3(1928)年6月15日没、享年83で、弟子の梅ヶ谷藤太郎が没した昭和2(1927)年9月2日よりも後でした。
83歳は横綱の長寿記録であり、現在も破られていません。

▼「負けない相撲」の具現者
梅ヶ谷は、谷風梶之助とともに「負けない相撲」の具現者だと思います。
4斗樽を片手で差し上げるほどの怪力ながら右上手を浅く引き、左は筈かのぞかせて寄るという堅実な取り口で、無理の無い合理的な相撲はまさに「負けない相撲」だったと思います。

この点は同じ怪力を謳われながら、堅実な相撲だった谷風梶之助を思わせます。

しかも寝ている間も二の腕を脇から離さず、彼の下駄は親指に力を込めるために親指の位置が窪んでいたといわれます。

赤ん坊の頃から酒で育ったという伝説があるように1斗(18リットル)以上はいける酒豪だったようです。

▼成績と記録

幕内通算成績 116勝6敗18分2預78休 勝率9割5分1厘 22場所で優勝相当9回

この成績を記録で分析してみます。

幕内勝率~9割5分1厘~史上2位
幕内勝率9割5分1厘は雷電為右エ門(9割6分2厘)に次ぐ史上2位で、横綱の最高勝率で谷風(9割4分9厘)を上回ります。

連勝~58~史上3位
58連勝は、双葉山定次(69)、谷風(63)に続く史上3位の連勝記録です。


▽梅ヶ谷に勝った力士
梅ヶ谷は幕内で6敗しかしていません。
梅ヶ谷に勝った力士を以下に列記します。
(対戦成績は梅ヶ谷から見ています)

勝ノ浦与市右エ門
(明治8年4月6日目~東前頭3枚目)
(明治9年1月7日目~東前頭4枚目)
最高位・前頭1枚目
(前頭筆頭はあえて1枚目で表記しています)
平幕時代の梅ヶ谷に連勝しています
対戦成績 6勝2敗2分
○○●●○分○○分○

雷電震右エ門(阿武松和助)
(明治9年1月4日目~東関脇)
最高位・大関
対戦成績 2勝2敗4分
●分分●分○○分
最初の2戦は梅ヶ谷が幕下にいる時に幕内の雷電と対戦したものです
したがって初戦の敗戦は梅ヶ谷の幕内での敗戦に含まれていません
詳細は後述の▼ライバルを参照

若嶋久三郎(楯山久三郎)
(明治14年1月9日目~東大関)
最高位・大関
梅ヶ谷の連勝を58でストップしています
対戦成績 11勝1敗1分
○○○○○○○○分○●○○

大達羽左エ門
(明治17年5月7日目)
最高位・大関
梅ヶ谷の連勝を35でストップしています
対戦成績 1勝1敗1分
○●分
詳細は後述の▼ライバルを参照

高見山宗五郎
(明治17年5月8日目~西前頭2枚目)
最高位・関脇
対戦成績 5勝1敗1分1休
○分○○○休○●

(この記事は、サイト「メインウェーブ」の「梅ヶ谷藤太郎(初代)」をそのまま転載したものです)

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3連覇で引退、引退後6年経ち第1回全日本力士選士権に優勝した怪物・栃木山守也

栃木山守也は、体重103kgの「史上最軽量横綱」ながら大正時代に無敵を誇り一時代を築いた強豪です。

現役時代の強さをもちろん引退から6年経って全日本力士選士権に年寄・春日野として出場して現役力士らを向こうにまわして優勝してしまいます。
(引退後のいくつかのエピソードからも現役時代の強さがうかがえます)

また筈押しのスピード相撲を完成させて、兄弟弟子の大錦卯一郎とともに「近代相撲の先駆者」といわれることもあります。

▼履歴

▽入門まで
栃木山は自ら望んで相撲界に入ったといわれます。


▽現役時代
明治44(1911)年2月の初土俵以来連勝を続け、大正2(1913)年5月の幕下まで21連勝をします。

入幕までにわずか3敗のスピード出世をします。

大正4(1915)年1月に入幕を果たします。

大正5(1916)年5月、新三役(東小結)の栃木山は、8日目に当時無敵を誇った太刀山峰右エ門の連勝記録を56でストップさせる大殊勲の白星を挙げます。

勝って花道を引き上げると背中に百円札が貼りついていたといわれます。

大正6(1917)年5月、大関に昇進すると、その場所に初優勝、以後5連覇をします。

連覇中の大正7(1918)年5月、横綱に昇進します。

栃木山はその後4回の優勝を積み重ねますが、3連覇した翌場所の大正14(1915)年5月直前に突然引退を表明して周囲を驚かせます。

まだまだこれからと何回優勝を積み重ねるのかと思われていた矢先でした。

最後の出場場所となった大正14(1915)年1月は10勝1分で負けなしの優勝でした。

栃木山の横綱在位成績は115勝8敗6分3預22休、勝率9割3分5厘です。

栃木山は横綱在位勝率9割を超えた最後の横綱です。

左利きだった栃木山は左筈、右おっつけで、相手にまわしを取らせず自分もまわしを取らない徹底した鋭い押し相撲を完成させます。
腰を割り、鋭いすり足により勝負が決した時には土俵に2本のレールのような線が出来ていたといわれます。

栃木山は相撲の型を完成した最後の力士といわれます。

その鋭いスピード相撲により近代相撲の先駆者ともいわれます。

体重管理においてもボクサー並みでベスト体重の27貫500(103kg)より軽いと軽く汗を流し、重いと稽古量を増やしベスト体重を保ったといわれます。

徹底した体重管理と猛稽古によって作られた体は、贅肉の削ぎ落とされた無駄の無い筋肉質の体でした。

身長172cm、体重103kgの体格ながら大変な怪力で知られ、強烈な右おっつけに相手は腕がねじ切れるかと思ったといわれます。

栃木山の所属した出羽ノ海部屋は、玉錦のように他の部屋から預けられた力士もいましたが、区別無く稽古をつけたといわれます。
また、出羽ヶ嶽のような他の力士が稽古を嫌う巨人力士とも積極的に稽古をしたといわれます。

本場所同様に稽古場でも圧倒的強さを示し、本場所では対戦の無かった同部屋の横綱である大錦や常ノ花も圧倒していました。


▽現役引退後
引退後は養父の行司・木村宗五郎の持ち株だった年寄・春日野を襲名します。
(栃木山は現役時代に木村宗五郎の養子となります)

当時の出羽ノ海部屋の不文律「分家・独立は許さず」を例外的に認められて春日野部屋として独立します。

抜群の実績、人格が評価され、養父の株の継承であることもあり、不文律を作った出羽ノ海(元横綱・常陸山)が存命中に唯一認めた例外です。


引退から6年後の1931(昭和6)年に第1回全日本力士選士権に年寄・春日野として参加し、横綱・玉錦を始めとする現役力士を次々と撃破し、決勝でも関脇・天竜を下して優勝してしまいます。

翌年の第2回全日本力士選士権には選士権保持者として参加、トーナメントを勝ち上がった玉錦との3番勝負にストレートあっさりとで敗れます。

(前年、年寄ながら優勝してしまったために「現役力士の立場はどうなるんだ」、「大相撲をつぶす気か」と批判されたことを察して敗れたともいわれています、第3回全日本力士選士権からは現役力士のみの参加となります)

引退後6年もたったにもかかわらず横綱・玉錦を始めとする現役力士を撃破して第1回全日本力士選士権を制してしまうあたりすでに「怪物年寄」といえますが、この時代には栃木山の現役時代の13尺の土俵ではなく、現在と同じ15尺の土俵で行われた点も栃木山の評価を高めるポイントです。

栃木山の現役時代は前述のとおり13尺の土俵でした。

史上最強力士を論議する際に重要な論点となるのが、江戸から明治にかけて圧倒的強さを誇った力士が当時の13尺の土俵ではなく、現在の15尺の土俵でもあのような高い勝率を挙げることができたのかという点です。

13尺の土俵で突っ張りや押しを武器に活躍した力士が、15尺の土俵になり苦闘している事実もあります。

栃木山は引退から6年たっているにもかかわらず、現役時代の13尺ではなく、15尺になった土俵で第1回全日本力士選士権に優勝しています。
栃木山は現在の15尺の土俵でも「強さ」を示したことになります。

引退後6年もたった年寄であるにもかかわらず・・・。

事実、その強さは引退後の春日野(栃木山)に玉錦が稽古をつけてもらっても歯がたたなかったといわれています。

現役時代の強さ、引退してからも衰えぬ強さから栃木山を近代最強力士として、史上最強力士の1人として推す声もあります。


引退後の驚くべきエピソードは他にもあります。

晩年の栃木山が、弟子の栃光と付き人達が動かせなかった大火鉢を1人で軽々と持ち上げて動かしてしまいます。

渡米したおりに、酒場で力自慢(ボクシングの世界チャンピオンであるジーン・ターニーとの説もあり)が彼の前で鉄棒を捻じ曲げると、同じ鉄棒を元に戻してみせ「こうしておいた方が便利なのに」といってのけたといわれます。


力士のマスコミ対応やファン対応、言葉遣いにも厳しかったといわれます。


昭和27(1952)年5月31日に当時の蔵前仮設国技館で還暦土俵入りを披露しています。


▼小さな大横綱
身長172cm、体重103kgの体格は歴代横綱でも小兵といえ、とくに体重は歴代横綱で最軽量です。

しかし生来の怪力と稽古で鍛え上げられた体は鋼のようで横綱として圧倒的な強さを誇りました。

3場所連続優勝のままで引退した引き際も見事なら、その6年後に年寄として第1回全日本力士選士権に出場して現役力士らを次々と撃破して優勝した「怪物年寄」ぶりも驚嘆に値します。

そのさまは晩年に至ってもその強さを内実させた武道の達人といったところでしょうか。

(この記事は、サイト「メインウェーブ」の「栃木山守也」をそのまま転載したものです)

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2012年10月03日

優勝32回の記録の巨人・大鵬幸喜

大鵬幸喜は、史上1位となる優勝32回、全勝8回を記録し、他にも6場所連続優勝2回、45連勝なども記録しています。

新入幕から引退まで優勝しなかった年は1度も無く、柔らかい巨体を利した「負けない相撲」を完成し、10年余りも相撲界に君臨しました。

その人気と知名度の高さは、当時の子供たちが好きだったものを並べた「巨人、大鵬、卵焼き」という言葉にもあらわれています。
優勝30回を機に「一代年寄」を認められ、引退後に現役時代の大鵬の名を年寄名跡として大鵬部屋を興しました。
昭和の大横綱として双葉山、北の湖、千代の富士とともに必ず名前が挙がります。

個人的に昭和の大横綱を絞って選べば、双葉山と大鵬となります。

▼履歴

▽入門まで
大鵬幸喜は、父がウクライナ人、母が日本人のハーフとして樺太に生まれました。

その後、敗戦を機に母や兄弟とともに北海道に移ります。

母子家庭であったためか、生活は苦しく各地を転々としたといわれます。


中学卒業後に定時制高校に通いながら働いていましたが、昭和31(1956)年7月に二所ノ関一行が巡業に来たのがきっかけで二所ノ関部屋に入門することになります。


▽現役時代
昭和31(1956)年9月に本名の納谷で初土俵を踏み、順調に出世していきます。


昭和34(1959)年5月に十両に昇進し、師匠の二所ノ関が有望な弟子につけようと温めていた「大鵬」に改名します。
大鵬は、二所ノ関が中国の古典「荘子」から取ったといわれています。


昭和35(1960)年1月に新入幕、初日から11連勝し注目されます。
12日目に対戦したのが、後にライバルとなる小結の柏戸で、この一番に敗れ、大鵬の連勝は「11」でストップします。
この場所は結局12勝3敗、新入幕ながら優勝した栃錦(14勝1敗)に次ぐ成績で敢闘賞を受賞します。


翌場所の同年3月は、さすがに上位の「壁」で7勝8敗と負け越しますが、続く同年5月は11勝4敗で敢闘賞の受賞と金星(朝汐)を獲得、同年7月は小結に昇進し11勝4敗、同年9月は関脇に昇進し12勝3敗で技能賞を獲得しました。

そして同年11月に関脇2場所目で13勝2敗で初優勝を果たし、翌場所の大関昇進を決めています。

入幕から6場所目、入幕した年の初優勝でした。

しかもこの年は栃錦の引退、若乃花(初代)の晩年で、若乃花は年間の優勝が3回ながら2場所の休場があったこともあり、大鵬が66勝24敗で年間最多勝の成績を挙げています。

ちなみにこの年の栃錦の成績は28勝5敗(優勝1回、同年5月引退)、若乃花(初代)の成績は59勝13敗18休(優勝3回)でした。

昭和36(1961)年1月に大関昇進、同年7月から昭和37(1962)年1月にかけて4連覇をし、その間の昭和36(1961)年9月に2連覇を優勝決定戦でライバル・柏戸を下して飾り、柏戸とともに翌場所の同年11月に横綱に昇進しています。

入幕した年に年間最多勝の獲得、大関昇進を決めたのも、入幕の翌年に横綱に昇進したのも大鵬が初であり、その後も出現していません。

昭和37(1962)年7月から昭和38(1963)年5月にかけて6連覇を達成するが、この頃から「大鵬の相撲には型が無い」との批判を受けるようになります。

昭和38(1963)9月、4場所連続休場で再起をかけていた柏戸との全勝での千秋楽決戦に敗れます。

しかしこの一番は、石原慎太郎によって「大鵬の一方的な八百長ではないか」との批判を受けます。
(大鵬は否定、後に石原は謝罪)

昭和40(1965)年5月、巡業先のアメリカから柏戸や北の富士とともに拳銃を密輸入していることが発覚し、書類送検させるが、相撲協会からの処分は謹慎にとどまります。

昭和40(1965)年5月は、三役昇進以後では皆勤した場所では唯一10勝を下回る9勝6敗の成績となります。

昭和41(1966)年3月から昭和42(1967)年1月にかけて再び6連覇を達成します。


昭和42(1967)年9月には左肘を故障し途中休場、翌場所の同年11月は全勝で再起を果たすが、その後は途中休場も含め、その他のケガや病気もあり5場所連続休場、しかも最近3場所は全休で、限界かといわれて迎えた昭和43(1968)年9月に進退を賭けて久々に出場します。

初日に敗れた時はもうダメかと思われましたが、慎重な相撲で引き技の多さは目立つものの、2日目から連勝を続け、14勝1敗で優勝し、再起を飾ります。

さらに2場所連続で全勝優勝で3連覇を達成します。

4連覇と更なる連勝を目指した昭和44(1969)年3月2日目の平幕の戸田戦で敗れて、連勝が「45」でストップします。

しかしこの一番は、ビデオ映像や写真で押し出したと思われた戸田の足が先に出ており、誤審であると問題になり、勝負判定にビデオを参考にするきっかけとなります。

連勝は「45」でストップしたものの、勝負判定にビデオを参考にするという「科学」を持ち込んだ意義は大きかったといえます。
大鵬の連勝ストップは、双葉山の連勝ストップとは別の意味でのインパクトとエポック・メイキングな出来事だったといえるかもしれません。


昭和44(1969)年5月に30回目の優勝をし、同年9月初日に相撲協会から「一代年寄」を認められます。

晩年になっても引き技を多用するある意味「無理のない相撲」で力を温存して、台頭してきた北の富士や玉の海といった「若い力」にも温存してためていた力を勝負所で発揮して対抗しました。

実際に大鵬は北の富士、玉の海の「最後の壁」となっていました。

昭和45(1970)年11月に玉の海との優勝決定戦に敗れるも、翌場所の昭和46(1971)年1月には千秋楽に本割と優勝決定戦で玉の海を下し、逆転で32回目の優勝を飾ります。

続く同年3月は12勝3敗、まだまだ余力があると思われた同年5月初日に栃富士に敗れ尻から落ちたことで引き際を見極め、5日目に新鋭の貴ノ花に同じく尻から落ちて敗れたことで引退を表明しました。


▽現役引退後
引退後は、「一代年寄」として年寄・大鵬を襲名し、大鵬部屋を興して関脇・巨砲らを育てます。

相撲協会においては理事を務めましたが、協会内で主流派ではない二所ノ関一門であることを考慮しても、現役時代の実績からは理事長クラスに就任してもおかしくはなかったと思います。

昭和52(1977)年に脳梗塞で倒れ、後遺症が残った健康面での問題が、理事長などの要職への道を閉ざしてしまったといわれます。

平成12(2000)年に北の湖(北の湖)、九重(千代の富士)を従えて還暦土俵入りを披露しています。

平成17(2005)年に相撲協会を定年退職して、長く空席だった相撲博物館館長に就任します。

これまで栃錦、若乃花と理事長経験者が就任することが慣例となっていた相撲博物館館長に、若乃花の後に理事長になった豊山や佐田の山ではなく理事長経験の無かった大鵬が就任したのは異例の抜擢といわれます。

平成20(2008)年11月の相撲協会理事会で健康面を理由に相撲博物館館長の退任を承認されました。

館長は同年12月26日で退きましたが、相撲への強い思いは変わらず、角界を温かくも厳しく見つめています。

(この記事は、サイト「メインウェーブ」の「大鵬幸喜」をそのまま転載したものです)

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69連勝の大横綱・双葉山定次

双葉山定次は史上1位の69連勝、5場所連続全勝優勝、全勝8回、年2場所時代の優勝12回などを記録した昭和の大横綱であり、古今屈指の強豪です。

立ち合いの変化、待ったをせず、相手が立てばいつでも立ち、その相撲に取り組む厳しい姿勢は伝説となっています。
力水を1度しかつけないのも双葉山から始まったといわれます。

その強さは「双葉の前に双葉なく、双葉の後に双葉なし」といわれ、双葉山が得意の左上手を取ると観客は安心して帰っていったといいます。

▼履歴

▽入門まで
少年時代は成績優秀、父の事業の失敗、母や兄(双葉山は次男)、姉の死もあり、船に乗り家業であった海運業を手伝っていたといわれます。

後の大横綱も元々は相撲に特に関心ありませんでした。

しかし村相撲に出場させられて大人を破り、評判となり、県警の双見喜一部長の働きかけで立浪部屋の入門します。

四股名の双葉山は「栴檀は双葉より芳し」の故事と世話になった双見氏の名に因みます。


▽現役時代
立浪部屋に入門した双葉山は1927(昭和2)年3月に初土俵を踏みます。

双葉山は大きく勝ち越すわけでもなければ負け越しもなく(4勝2敗が多く、3勝3敗は何度かあり)、1931(昭和6)年5月に19歳3ヶ月で新十両に昇進します。

年寄・春日野(栃木山)からは「誰とやっても少しだけ強い」と評されていたようです。

昭和7(1932)年1月に起きた春秋園事件で関取が大量脱退したため、1月の本場所は中止となり、2月に開かれた本場所では双葉山は繰り上げ入幕となります。


正攻法過ぎる相撲と力がつく前の繰り上げ入幕で、上位にはさすがに通用しませんでした。

攻め込まれての逆転の「打棄り」が多く「打棄り双葉」といわれ、「相撲が消極的」との声もありました。

しかし攻め込むだけの「攻撃力」がまだ備わっていないために、結果的に攻め込まれており、父の手伝いで船に乗って鍛えた足腰の強さと粘り強さが「打棄り」につながったと思われます。

当時の第一人者の玉錦は「双葉の相撲はあれで良いのだ、今に力をつければ欠点が欠点でなくなる」と評価していました。

この評価は、後に双葉山が強烈な足腰を攻撃に活かせるようになり正しかったことが証明されます。

玉錦はある程度評価していたものの、この時期の双葉山は何度か負け越しも経験しており、苦闘の相撲であったことは確かです。
~昭和10(1935)年1月は新小結で4勝6敗1分、5月は前頭筆頭で4勝7敗と連続負け越し~

しかしこの年に蓄膿症の手術し、体重が増すと攻撃力も増し、右四つ左上手の型を身につけていきます。



昭和11(1936年)1月に前頭3枚目で9勝2敗の好成績、6日目の玉錦に敗れた翌日の7日目から69連勝がスタートするとはおそらくこの時誰も想像していなかったはずです。

翌場所の5月には関脇で11戦全勝で初優勝、9日目には玉錦にも初めて勝ちます。

以後、玉錦が現役死するまで本場所で双葉山が玉錦に敗れることはありませんでした。

この場所の9日目の双葉山が玉錦に初勝利した一番は、「王者交代」の幕開けと語られることになります。

以後、初優勝を含め5場所連続全勝優勝、その間連勝も積み重ね、関脇1場所、大関2場所で横綱に昇進します。

~双葉山人気で連勝中の昭和12(1937)年5月には場所の取り組みが11日から13日に、連勝がストップした後の昭和14(1939)年5月には13日から現在と同じ15日に増えています~

昭和13(1938)年5月の場所中に江戸時代の大横綱・谷風梶之助の持つ史上1位の連勝記録である63連勝(分け・預かりなどを含む)を約150年ぶりに塗り替えます。


その翌場所となる昭和14(1939)年1月4日目、連勝を69にまで積み重ねた双葉山は、出羽海部屋の新鋭・安藝ノ海節男と対戦します。

双葉山にとって安藝ノ海は本場所で初顔合わせの相手であり、場所前巡業での稽古では体調不良を理由に手合わせを断った(その夜に入院、盲腸ともいわれている)ことで、「未知の対戦相手」ともいえました。
(双葉山は場所前に対戦しそうな相手と稽古をし、自身の強さを相手にイメージさせるとともに、相手の徹底研究をしたといわれます)

さらに双葉山は場所前にアメーバ赤痢のため体重が激減して体調不良・・・休場も考えたといわれますが、場所の1ヶ月前に玉錦が現役死したこともあり、責任感の強い双葉山は強行出場することになります。


双葉山が連勝がついにストップしたこの一番は・・・

立ち合いで双葉山の右の食らいつき、頭をつけた安藝ノ海に対し、双葉山は自分の組み手の右四つながら、両まわしとも取れない窮屈な体勢・・・

誘いの右掬い投げを2度ほど打つも安藝ノ海は食らいついたまま・・・

双葉山が3度目の右掬い投げを放った瞬間、安藝ノ海の左外掛けが双葉山の右足を捕らえ、双葉山は崩れるように倒れ、ついに連勝がストップします。

しかし、さすがは「二枚腰」といわれた強靭な足腰の双葉山で、体勢を崩しながらも1度堪えた後で、安藝ノ海の体勢を浮かして外掛けを外して右掬い投げを再度打ちにいっており、安藝ノ海の体勢が右に傾きながら双葉山とともに倒れています。

そのため遠目には右外掛けを掛けたように見え、翌日の各新聞にも「右外掛け」と誤って報じられたといいます。

双葉山の勝負への「執念」と驚異的な「足腰の強さ」を示すエピソードです。

この双葉山の連勝ストップは号外も出たといいます。


安藝ノ海の所属する出羽海一門にとって当時連勝中だった双葉山の打倒は悲願であり、笠置山を作戦参謀に、「打倒・双葉山」の研究と稽古をしていました。

特に作戦参謀の笠置山は、当時は珍しい学士力士(早稲田大学卒業)であり、雑誌「改造」にその研究内容を「横綱双葉山論」として発表しています。

双葉山は幼い頃に友人の吹き矢が右目に当たり、ほとんど右目が見えなかったといわれます。
(さらにいえば巻上げ機械で右手小指も失っています)

双葉山の右目がほとんど見えなかったのは、親と親方夫婦以外には知られていませんでしたが、笠置山は、研究の中で双葉山の取り組みを分析し、双葉山の右目の状態を認識していたといわれます。

作戦も双葉山の(死角となる)右を中心の攻めることだったそうです。

安藝ノ海の殊勲の勝利は、作戦通りとなり、出羽一門の悲願が成就した瞬間でもありました。

安藝ノ海は、殊勲の報告の後で、師匠の出羽海や藤島から「勝って褒められる力士になるより、負けて騒がれる力士になれ」といわれたといいます。(どちらか一方からの言葉であるとの説もあり)


双葉山は連勝ストップにも普段通りに一礼し、支度部屋へ引き上げたといいます。

双葉山はこの夜、師と仰ぐ安岡正篤に「ワレイマダモッケイタリエズ、フタバ」(我未だ木鶏たりえず、双葉)と打電したといわれます。
(双葉山の言葉を友人が安岡に取り次いだともいわれ、双葉山本人は友人に宛てた打電を友人が安岡に取り次いだと著書で証言)
(ちなみに「木鶏」は中国の古典「荘子」が出典で、双葉山は勝負師としての理想をこの中で語られる「雑念のない」木鶏の境地に求めました)

この夜は前から決まっていた大分県人会主催の激励会もありましたが、普段と変わらぬ態度で出席し、列席者は感銘を受けたといいます。

双葉山は翌日以降も5日目、6日目と敗れ3連敗、9日目にも敗れてこの場所は4敗しています。


=双葉山の69連勝中の星取表=====


昭和11(1936)年1月(東前頭3枚目 9勝2敗)<69連勝が玉錦に敗れた6日目の翌日よりスタート>
● ○ ○ ○ ○ ● ○ ○ ○ ○ ○

昭和11(1936)年5月(東関脇・優勝 11戦全勝)<全勝で初優勝、双葉山は9日目に初めて玉錦に勝つ>
○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○

昭和12(1937)年1月(東大関・優勝 11戦全勝)<全勝で2連覇>
○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○

昭和12(1937)年5月(東大関・優勝 13戦全勝)<全勝で3連覇>
○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○

昭和13(1938)年1月(西横綱・優勝 13戦全勝)<全勝で4連覇>
○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○

昭和13(1938)年5月(東横綱・優勝 13戦全勝)<全勝で5連覇>
○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○

昭和14(1939)年1月(東横綱 9勝4敗)<4日目に安藝ノ海に敗れ連勝が69でストップ>
○ ○ ○ ● ● ● ○ ○ ● ○ ○ ○ ○



翌場所の昭和14(1939)年5月は、先場所の不調(連敗ストップと9勝4敗)の影響が心配されましたが、15日となった最初のこの場所を15戦全勝で飾り、復活を果たします。
(翌場所も14勝1敗で優勝、29連勝を記録)

昭和15(1940)年5月に4敗(この後不戦敗も含め5敗)を喫し、「信念の歯車が狂った」と突如引退を表明しますが、周囲の説得で撤回し、途中休場、滝に打たれて再起を図り、復活します。



昭和17(1942)年1月から昭和18年5月にかけて4場所連続優勝、昭和17(1942年)5月千秋楽から昭和19(1944)年1月5日目にかけて36連勝をしています。

人によってはこの時期の双葉山が最も強く充実していたとの証言もあります。


=4連覇、36連勝中の双葉山の星取表====


昭和17(1942)年1月(東横綱・優勝 14勝1敗)<9回目の優勝>
○ ○ ○ ○ ● ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○

昭和17(1942)年5月(東横綱・優勝 13勝2敗)<2連覇、10回目の優勝>
○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ● ○ ● ○

昭和18(1943)年1月(西横綱・優勝 15戦全勝)<3連覇、11回目の優勝、全勝>
○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ □

昭和18(1943)年5月(東横綱・優勝 15戦全勝)<4連覇、12回目にして最後の優勝、全勝>
○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○

昭和19(1944)年1月(西横綱 11勝4敗)<6日目に松ノ里に敗れ連勝が36でストップ>
○ ○ ○ ○ □ ● ○ ○ ○ ○ ● ● ○ ○ ●



昭和19(1944)年11月6日目に下位の頃から目をかけていた東冨士に敗れたことにより、引退を決意したといわれ、この時は周囲の説得で撤回しましたが、翌日の増位山戦が不戦敗となり休場します。

翌場所の昭和20(1945)年6月初日に相模川を破り休場、休場届が割りが組まれる前だったのでこの場所の成績は1勝6休となりました。
さらに翌場所の同年11月を全休(10休)して引退しています。


▽現役引退後
現役時代から実績を評価され、現役力士ながら弟子の育成を許され福岡県で「双葉山道場」を開いていましたが、引退後は年寄・時津風を襲名します。


昭和22(1947)年1月、新興宗教・璽宇教の教祖とともに警察に逮捕される事件が起こります。
(璽宇教が世間の不安を煽っているとなどを理由として警察が教祖に出頭を求めたものの幹部を代わり出頭させ、教祖が逃亡を図ったため警察が璽宇教の本部を強襲した事件で、この時双葉山は信者に交じって抵抗し、特に双葉山は大暴れしたため教祖とともに逮捕されました)

日蓮宗を信仰していたといわれる双葉山が璽宇教に帰依したのは今もってはっきりした理由は謎とされますが、一般的には双葉山の求道的で一途な性格が裏目に出たとされます。

その後友人の新聞記者の説得で双葉山は我に返ったといわれます。


昭和32(1957)年5月に出羽海(常ノ花)理事長自殺未遂の後を受けて理事長に就任します。

秀ノ山(笠置山)、武蔵川(出羽ノ花)らを参謀に、外部ではかつての盟友でNHK相撲解説の玉の海の意見にも耳を傾け、部屋別総当り制、相撲協会構成員の65歳定年制、相撲茶屋の再編と法人化などの改革を断行しました。

年寄・時津風としては1横綱(鏡里)、3大関(大内山、北葉山、豊山)などを育てました。

昭和43(1968)年12月16日死去。享年56。

死の直前に東大病院に入院する際は死に装束を模した白いスーツで向かったとされます。

(この記事は、サイト「メインウェーブ」の「双葉山定次」をそのまま転載したものです)

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四十五日の鉄砲・太刀山峰右エ門

太刀山峰右エ門は、大関、横綱として雷電為右エ門以来ともいえる無敵の強さを誇った横綱です。

とくに横綱時代の在位勝率は9割6分6厘という驚異的なものでした。

この在位勝率は、1場所だけで勝率10割の陣幕久五郎を除けば、史上1位です。

そのため太刀山を史上最強力士に推す声もあります。

管理者は雷電、谷風に続く3位に太刀山を推します。
 
▼履歴

▽入門まで
太刀山の実家は、製茶業を営み、太刀山の怪力で揉まれるお茶は針のごとく鋭く、品評会で必ず優勝したといわれます。

徴兵検査での優勝な成績が評判となり、友綱が勧誘に動いたものの本人と家族が拒否したといいます。

太刀山の入門までの経緯は、のちの大横綱にふさわしい大物が関わることになります。

友綱の後援者であった自由民権運動の中心人物である大物政治家の板垣退助、内務大臣の西郷従道、富山知事らが動いて明治32(1899)年に太刀山を友綱部屋に入門させました。

太刀山の四股名は、地元の名峰・立山にちなみ、さらに横綱・常陸山(ひたちやま)谷右エ門に迫れとの意味も込めて板垣退助が命名しました。

まさに太刀山の入門は、「国家プロジェクト」級でした。

▽現役時代
ケガや病気もあり、入門の1年後の明治33年5月に幕下付け出しで初土俵を踏みます。

順調に強さを増しますが、一門には太刀山と渡り合える稽古相手がおらず、出羽ノ海部屋の常陸山に頼み込み、稽古をつけてもらったといいます。

この時、一緒に稽古をしたのが、大関までライバルといわれた駒ヶ嶽國力です。

太刀山の相撲は突き押しで、その威力は二突き(2月)とは耐えられないとの意から一突き半(1月半)→45日で「四十五日の鉄砲」と恐れられました。

四つ相撲は不得手といわれながら、四つになっても「呼び戻し」という強烈な技があり、その強烈な決まり方から菊人形のからくりになぞらえて「仏壇返し」とも呼ばれました。

明治37(1904)年5月に前頭1枚目で常陸山休場ながら優勝相当、明治40(1907)年5月には関脇で常陸山を初めて下し2度目の優勝相当の成績を挙げましたが、本格的に強くなったのは、大関になってからです。
(優勝制度は明治42年6月からの新聞社による優勝掲額制度が始まりで、それ以前は優勝相当となります)
(前頭筆頭はあえて前頭1枚目で表記しました)

長身(188cm)を持て余していたのが、体重の増加により、力強さと安定感が増しました。

明治43(1910)年6月から明治45(1912)年5月かけて5連覇、全休を挟んで、大正2(1913)年5月、大正3(1914)年1月の2連覇をしています。

5連覇が始まる前の明治42(1909)年6月8日目から明治45(1912)年1月7日目まで43連勝、8日目に西ノ海嘉治郎に敗れたものの9日目から再び連勝し、大正5(1916)年1月8日目に栃木山守也に敗れるまで56連勝をしています。

優勝回数はその後2回を重ね、最後の優勝をした翌場所の大正6(1917)年1月に大錦卯一郎との千秋楽全勝対決に敗れ、その後の稽古でのケガ、栃木山、大錦の台頭もあり、2場所全休後に現役を引退しました。

稽古でのケガが直接の引退の原因となったようですが、みごとな引き際だったと思います。

太刀山の強さを示す本場所でのエピソードとしては、大関時代の明治43(1910)年6月3日目の小結・小常陸戦、8日目の平幕(前頭8枚目)・八嶋山戦が有名です。

小常陸戦では、対戦の前日に小常陸の後援者が宴席をもうけて太刀山に酒を飲ませ、太刀山の二日酔いを狙ったものの、翌日の対戦では、小常陸を立会いの突き一発で桟敷まで飛ばし、桟敷を足で突き破った小常陸はその時のケガで翌日から休場してしまいました。

その5日後の8日目に太刀山と対戦したのが八嶋山です。

八嶋山は、小常陸戦の衝撃が頭にあったのか、立ち合いに太刀山の鉄砲(突き)を恐れてじりじりと後退し土俵を割り、太刀山は手を出すことなく、前へ進むだけで勝利を手にしました。

当時の新聞はこの一番の決まり手を「にらみ出し」ともてはやしたといわれます。
(新聞の決まり手欄では「寄り切り」)

土俵の上での本場所以外のエピソードとしては、太刀山が土俵に1メートル程の円を書き、円から自分(太刀山)を出すものがいたら10円(現在では数十万円に相当)をやると言い挑戦者をことごとく退けたというものがあります。

土俵外での怪力エピソードも多く、400kgの砲弾を片手で振り回した、500kgの弾丸を1人で運んだなど驚くべきものです。

太刀山の体格
太刀山の全盛期の体格は身長188cm、体重150kgといわれます。

太刀山は全盛期へ向かう前には軽量だったため、長身を持て余していました。

しかし、体重の増量とともに力強さと安定感が増して無敵の強さを誇ることになります。

「勝つ相撲」の具現者
太刀山は雷電為右エ門とともに「勝つ相撲」の具現者だと思います。

下半身が堅かったこともあり、突き押し相撲に徹したといわれますが、横綱としての強さはまさに無敵だったといえます。

積極的に攻める相撲はまさに「勝つ相撲」そのものです。

前述したとおり、当時の相撲は常陸山に代表されるがっぷりの四つ相撲が全盛で太刀山のように一瞬で勝負が決する相撲は好まれなかったようです。

しかし、常陸山らに代表されるがっぷりの四つ相撲から栃木山、大錦に代表されるスピード感ある速攻相撲へ変わる中間期に位置する太刀山は相撲の変化に重要な役割を果たしたといえると思います。

ある意味で栃木山、大錦という近代相撲の先駆者に先んじた先駆者ともいえるかもしれません。

43連勝した後1敗を挟んで56連勝していますが、これは「負けない相撲」と比較すると取りこぼしが多い傾向にある「勝つ相撲」においても極めると大きな連勝が可能であることを示しています。

▽現役引退後
引退後は東関を襲名して独立しましたが、勝負検査役の選挙に敗れたのを機に弟子を高砂に譲って角界を去ります。

人望の無さが落選という結果になったといわれますが、晩年は巨万の富を築き、悠々自適の生活を送ったといわれます。

当時の力士としては食事面など健康に気を遣い、節食であったといわれます。

この健康への気遣いが昭和12(1937)年2月に還暦を記念した「還暦土俵入り」につながったと思います。

還暦土俵入りの元祖といわれます。

現役時代から絵画に親しみ、日本画を学び、特に富士山を好んで描いたといわれます。

角界を去りましたが、個人的には「人生の達人」だったと思います。

(この記事は、サイト「メインウェーブ」の「太刀山峰右エ門」をそのまま転載したものです)

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2012年10月02日

横綱の中の横綱・谷風梶之助

谷風梶之助は、第4代横綱ですが、実質上最初の横綱とされています。

古今の最強力士といえば、雷電為右エ門、谷風梶之助が不動の1位、2位といわれることが多いようです。

両力士はそれだけ大相撲において抜きん出た存在であり、特別視され、別格で扱われています。

管理者も雷電に続く最強力士として谷風を推します。

▼履歴
谷風は、寛永3(1750)年8月8日に現在の宮城県に生まれました。

明和6(1769)年4月に伊達ヶ関の名で看板大関として初土俵を踏みますが、翌場所には、仙台藩主である伊達家を憚って達ヶ関に改名します。
看板大関ではありましたが、相撲の実力でも非凡な面を示します。

看板大関を3場所務めた後、その待遇をよしとせず、明和7(1770)年11月に前頭1枚目から再スタートします。

安永5(1776)年11月に谷風に改名します。


安永7(1778)年3月から天明2(1782)年2月にかけて63連勝をします。
(63連勝は双葉山が69連勝をするまで約150年間も連勝記録となっていました)


連勝をストップさせたのが、後にライバルとなる小野川喜三郎(当時・幕下3枚目、当時の幕下は現在の十両)でした。

連敗がストップした翌日から谷風は再び43連勝をしています。

寛政元(1789)年11月に小野川とともに横綱免許を受けます。

寛政7(1795)年1月9日に流行していたインフルエンザにより谷風は現役死します。

享年44歳。

この時35連勝中でした。

そして死因となったこのインフルエンザは「御猪狩風」と呼ばれました。

ちなみによく混合される「タニカゼ」といわれたインフルエンザは、天明4(1784)年頃に流行り、谷風が「土俵上で儂を倒すことはできない。

倒れているのを見たければ儂が風邪にかかった時に来い」と語ったといわれる流感だといわれます。

以後、この古今並びなき偉大な大横綱である谷風の名を名乗るものは無く、当然のごとく、「止め名」となっています。

▼谷風に対する人物評
当時の谷風に対する人物評は、「いつもにこやかで少しもおごったところが無い」、「力量すぐれ、相撲は達人、腰低く寄り足は早い・・・寛永このかた、こんな完璧な力士はいない」といったものです。

怪力で多くの逸話、伝説も持ち、力量に優れながらもおごらず堅実な相撲を取っていたようです。

人物としてのスケール、度量の大きさも称えられていました。

一方で負けず嫌いでも知られ、物言いをよくつけたといわれます。

史上最強力士といわれる雷電為右エ門を預かり弟子として江戸へ上ってから初土俵まで6年間育てたのも谷風の功績かも知れません。

両力士は同じ片屋で本場所での対戦はありませんが、この両力士の対戦は「究極のドリーム・マッチ」といえます。

▼谷風の体格
身長189cm、体重169kgのアンコ型の巨漢で、色が白く、目が細かったといわれます。

錦絵でも上記の特徴がはっきりわかります。

▼「負けない相撲」の具現者
雷電が「勝つ相撲」の具現者なら、谷風は「勝つ相撲」の要素も少し感じながらも「負けない相撲」の具現者だと思います。

勝利を目指す点では「勝つ相撲」も「負けない相撲」も同じですが、より綿密に勝利を目指すのが「負けない相撲」です。

谷風が現役死するまでの35連勝をした最晩年は、「負けない相撲」の完成に最も近づき、安定した「円熟期」といっていいかもしれません。

それだけに谷風の現役死は惜しまれます。

もちろん63連勝が始まる安永7(1778)3月から、小野川に敗れ、再び43連勝をし、連勝がストップする天明6(1786)年11月までの「全盛期」の強さも他の追従を許さぬ凄さがあったと思います。

▼成績と記録
通算成績 258勝14敗16分16預5無勝負112休 勝率9割4分9厘 49場所で優勝相当21回

この成績を記録で分析してみます。

▽勝率~9割4分9厘~史上3位
幕内勝率9割4分9厘は、雷電(9割り6分2厘)、梅ヶ谷藤太郎(初代)(9割5分1厘)に続く史上3位の記録です。

なお、横綱在位勝率は、9割6分5厘(55勝2敗5分1預2無勝負36休、勝率9割6分5厘、11場所で優勝相当3回)で、1場所のみで勝率10割の陣幕久五郎を除けば、太刀山峰右エ門の勝率9割6分6厘に次ぐ史上2位です。

▽優勝相当~21回~史上7位
優勝相当21回は、年2場所の時代にあっては、雷電(28回)に続くもので、年6場所の時代になってからは、大鵬(32回)、千代の富士(31回)、雷電(28回)、朝青龍(25回)北の湖(24回)、貴乃花(22回)に続くものです。

▽連覇~6~史上3位タイ
安永8(1779)年3月から天明元(1781)年10月にかけての6連覇は史上3位タイです。

この6連覇は、63連勝をしている間にあたり、この期間は負け知らずでした。

谷風は6連覇のほかに天明2(1782)年10月から天明4(1784)年3月までの4連覇、さらに安永6(1777)年10月から天明元(1781)年10月の間に全休を挟んで出場場所8連覇を記録しています。

▽連勝~63~史上2位
双葉山(69)に続く史上2位で、この記録は約150年間破られませんでした。

谷風は、ほかに43連勝、35連勝(現役死まで継続)を記録しています。

こと連勝記録に関しては、3度にわたる大きな連勝があり、他の追従を許さぬ実績を残したといえます。

(この記事は、サイト「メインウェーブ」の「谷風梶之助」をそのまま転載したものです)



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史上最強力士・雷電為右エ門

雷電為右エ門は、その圧倒的な成績と記録、伝説、逸話から史上最強力士といわれることが多いようです。

「横綱力士碑」を建立した12代横綱である陣幕久五郎も「無類力士」として雷電を「横綱力士碑」に顕彰し、特別視しています。

管理者も雷電を史上最強力士に推します。
(注意・雷電の名前を「爲」右エ門ではなく、「為」右エ門の表記で統一しています)


▼履歴

▽初土俵まで
雷電は、明和4(1767)年に現在の長野県に生まれました。

少年期からその巨体と怪力で知られた雷電は、15歳の時に大名行列の前に立ち往生した荷車を担いで、行列を通したそうです。

この出来事をきっかけに雷電に読み書きを教えていた庄屋の上原源左衛門の元に、天明3(1783)年に日本中が飢饉となり、特に浅間山の噴火により、北陸巡業で困窮を極めた浦風一行の力士たちが転がり込みます。

9ヶ月間を力士とともに生活した雷電は、天明4(1784)年9月に浦風に入門し、江戸に上ります。


江戸では、当時の第一人者である谷風梶之助の預かり弟子として初土俵までの6年間を過ごすことになります。
(恵まれた体格と才能を持ったうえに第一人者から直接指導をみっちり受けるわけですから強くなるはずです・・・)
(雷電の初土俵は、こうした万全な準備期間を経た満を期してのものといってよいかもしれません)

この間に期待の大きさからか初土俵前ながら松江藩に抱え上げられる異例の待遇を受けます。

▽現役時代
寛永元(1789)年7月に大坂で小結を務めた(全休)後、寛永2(1790)年11月に関脇として江戸でデビューします。

関脇に張り出されるあたりは、やはり期待の大きさでしょうか。

その期待通りにいきなり小野川との預かりを含む8勝2預の優勝相当の成績を残します。

以後、35場所(出場34場所)で優勝相当28回、通算成績254勝10敗2分14預5無勝負41休、勝率9割6分2厘、9連覇、7連覇、44連勝、43連勝など圧倒的成績を残すことになります。


雷電には「全盛期」が無いといってよいかもしれません。

なぜなら初土俵から引退まで一貫して圧倒的に強かったからです。


2敗以上した場所は1場所もなく、同じ相手に2敗したのも花頂山のみ、わずか10個の黒星もほとんどは取りこぼしであったといわれます。

雷電の名は、雷電為右エ門の登場以前には為右エ門より前の時代の為五郎、同時代の灘之助(雷電同士の対決も実現しますが、後に手柄山繁右エ門に改名、対戦成績は為右エ門の2勝1預)など散見されますが、雷電為右エ門の登場以後は、明治期に兜山和助が雷電震右エ門を名乗った(後に病気による大関陥落で阿武松和助に改名)例外を除くと、以後は名乗るものはなく、いわゆる「止め名」となっています。

なお、兜山が雷電を名乗る際に、雷電ゆかりの松江藩に伺いを立てたといわれます。


禁じ手伝説
この圧倒的強さから、雷電には「張り手」「鉄砲」「閂(かんぬき)」、さらには「鯖折」が禁止されたとの伝説があります。

多くの文献にも見られる「禁じ手伝説」は事実ではないとの見方が有力ですが、このような伝説が生まれるところに雷電の圧倒的な強さがうかがえます。


なぜ横綱になれなかったか
大相撲史における最大の謎のひとつに史上最強力士といわれる雷電が横綱になれなかったことがあります。

いくつかの説を列記し検証してみます。

・上覧相撲など横綱免許の機会がなかった
享和2(1802)年に上覧相撲があり、雷電も出場していることからこの説は疑問視される


・ペアで授与される横綱免許に雷電に見合う相手がいなかった
実質上初の横綱とされる谷風と小野川がペアで横綱免許を受けており、雷電の圧倒的強さから、雷電の実力に見合う相手としてのペアが見つからなかったとする説です

たしかに雷電の圧倒的強さに見合う相手はおらず、ある程度の説得力があると思います


・横綱免許は谷風、小野川のみに授与する予定だった
谷風、小野川に横綱免許が授与されてから阿武松緑之助が横綱免許を授与されるまでしばらく空白期間が続きました

ただし、その間に柏戸利助と玉垣額之助(4代)に横綱免許の打診がありました(両者辞退)


・遺恨相撲で相手を投げ殺し横綱免許が取り消された
講談などで語られるこの説は完全な創作とされ否定されています


管理者の個人的見解としては「ペアで授与される横綱免許に雷電に見合う相手がいなかった」とする説が有力と思います。

谷風、小野川に続く横綱免許に柏戸利助と玉垣額之助(4代)が打診されたことからもこの説は有力なのではと考えます。

さらに「横綱免許は谷風、小野川のみに授与する予定だった」との説も可能性があると思います。


雷電の体格
雷電の体格は、現在においても巨人といえる身長197cm、体重170kgの筋肉質の体格(異説もあり)といわれます。

巨人にありがちな脆さもない「規格外」の体格であり、現在よりも平均的に小型の体格であった江戸時代においては想像を絶するサイズだったと思われます。

現存する雷電の手形は長さ23.3cm、幅13cmで、多くが左手での手形であることから左利きだったのではといわれています。


「勝つ相撲」の具現者
雷電は太刀山とともに、より積極的に攻撃的に勝利を目指す「勝つ相撲」の具現者と考えます。

雷電の成績で特徴的なのは、当時としては驚くほど少ない2回の引き分けです。

「勝つ相撲」で他を圧倒していた雷電は、引き分けになる以前にその圧倒的実力差で「勝ってしまう」ので驚くほど引き分けが少なかったと考えます。

敗戦のほとんどが取りこぼしであったのは、対戦相手が(本場所において)柏戸以外は三役ではなかったことからもうかがえます。

勝つことが当たり前の雷電にとっては、ある意味で油断があったと推測され、その油断がなければ、連勝記録も更に伸びたのではないかと個人的には考えます。

圧倒的強さの雷電ですが、連勝記録については44が最高で、史上7位と控えめにとどまっているのが惜しまれます。


酒豪伝説
雷電は酒も非常に強かったといわれます。

享和2(1802)年の長崎巡業において、中国の学者で「李白の生まれ変わり」と噂された酒豪・陳景山との飲酒対決を行ったといわれます。

陳が1斗(18リットル)を飲んでダウンした後で、雷電はさらに1斗、合計2斗(36リットル)を飲み干し、高下駄を突っかけ傘を差して雨の中を宿へ帰ったというから、酒量の限界はまだまだのようです。

翌日の夕方まで寝込んだ陳はあらためて雷電の酒豪ぶりに脱帽し、絵と書を贈ったそうです。

雷電の敗戦に引き技と思われる決まり方が多いといわれるのは、油断からくる飲酒が影響しているのかもしれません。

▽現役引退後
雷電は文化8(1811)年閏2月を最後に現役引退後、松江藩相撲頭取として、強豪・稲妻雷五郎を見出します。

文化11(1814)年に大火で焼失した報土寺の鐘楼と釣鐘の再現に尽力しますが、この鐘の形状などが幕府上役の不興を買い、江戸払いにとなり、文政2年(1819)年には藩財政緊縮の流れの中で相撲頭取職を解任となります。

晩年は、妻の実家のある現在の千葉県佐倉市に移り、その地で暮らして、文政8(1825)年2月21日に亡くなったとされます。

享年58歳。

雷電は当時の相撲取りとしては高い教養を持ち、「諸国相撲控帳」(通称「雷電日記」)、「萬相撲控帳」を残しており、これらは江戸の風俗を知る貴重な資料となっています。

史上最強力士は、文武両道でもありました。

(この記事はサイト「メインウェーブ」の「雷電為右エ門」をそのまま転載したものです)
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